黄八丈の流行と工芸調査

著:山下 譽
黄八丈が流行したのは文化文政の頃(1804-1830年)で、これが第一回目の流行と言われる。
大正時代にも竹久夢二が描いたように人気が高まった。
柳宗悦1先生によると、明治時代には医者の制服だったという。
コブナグサは薬草の一種で不浄除けの効果があるとされたからだろう。
昭和五(1930)年に秦秀雄2が八丈島へ現地調査に来ている。
恐らくこれが近年における最初の調査ではないだろうか。
柳悦孝3先生のグループが調査にかかる七年前で、当工房初代山下与惣右エ門、七十二歳の時で接点があったようである。
与惣右エ門は安政五(1858)年の生まれで、二十歳の時は年貢の染めをやっていたと聞く。
金納による地租は明治四十二(1909)年からであるから、官納品を手掛けていたというのは間違いない。
享年は昭和九(1934)年、七十六歳であった。
秦秀雄によると、当時、古来からの染色法を伝えるのは三人いるのみだったという。
宗悦先生はじめ、日本民藝館の人達が船の着く港から離れた私共の中之郷まで何を目的においでになったのか、私共が民藝館の人々と結ばれたのは、双方にとって幸運なことであったと思う。
悦孝先生に因ると、先生のお父様(柳悦多・宗悦の長兄)が遠洋航海の途中に八丈に寄って買い求めたのが、曽祖母にあたる山下めゆの母親が織った反物だったという。
ここで地元での呼称について少し触れておきたい。
黄八丈とは呼ばず「タンゴ」が全島の呼称だった。
黄八丈とは江戸方の名称で、島民はつい最近までタンゴであった。
昭和三十五(1960)年頃から観光客が増え、島外者の呼称に倣い、今は「黄八丈」が専らでタンゴは使われなくなった。
焼物を瀬戸物というように織物の総称なのか、隣の三宅島には三宅タンゴがある。