小石丸(蚕)について

著:山下 譽
正徳三年発行の「和漢三才図会」に八丈島の織物は山繭(天蚕)であったとする記述がある。
しかし、この年には年貢の見本帳「永鑑帳」が幕府御納戸により遣わされた年であり、黄八丈の最盛期であったろうから、山繭というのは考えられない。
何故なら、八丈島には山繭の食餌となるクヌギの生育がない。
野蚕ではシンジュ蚕があるが、これはシイに付く。黄八丈には用いず、三味線の糸にしたと年寄りの話にある。
小石丸の飼育については、祖母山下めゆが「黄八丈の品質向上のために小石丸が必要です」と柳宗悦1先生に話していたことが昭和二十五(1950)年、貞明皇太后陛下の日本民藝館ご来館の折にお耳に入り、小石丸をお分けいただく約束を賜ったことにはじまる。
陛下は翌年お亡くなりになるが、ご意志を継がれた香淳皇后陛下より、「飼育用に小石丸を下賜する」旨の通知が日本民藝館にもたらされた。
めゆは上京し、宗悦先生の案内で宮中へ参内、二齢の桑止時の小石丸1,500頭を賜り、大切に持ち帰った。
賜った蚕の飼育成績は良好で、その糸質は他の糸と混ぜてあっても質感の区別が付く程であった。
二反の布ができ、一反は天皇家へ、もう一反は着物に仕立て当方にある。
小石丸は原種のため二年間の飼育が許されたが、その後は国へ返還した。
当時は蚕種業法という法律があり、原種の飼育が制限されていたのであった。
昭和五十三(1978)年、八丈島歴史民俗資料館所蔵の「永鑑帳」弘化四(1848)年版の傷みが酷く、今のうちにこの複製を残さなければと考えた。
一反織って柳悦孝2先生に見てもらったところ、「復元となれば糸から昔通りの小石丸の飼育から始めよ」とのお言葉があり、ちょうど昭和五十七(1982)年十一月に昭和天皇の五十三年ぶりの八丈島御訪問が決まり、この機会を利用して、貞明皇太后陛下の時のように分けていただく約束をお願いしてはどうかと、悦孝先生から勧められた。
しかし、お会いしてもそこまでは言い出しきれず、昭和二十六年の時の話や、小石丸の糸の素晴らしさについて話すのみとなった。
その時のことを御歌に詠まれたのが次の歌である。
小石丸の糸の話しを島人に
聞きて母宮をしのびけるかも
その後、手続きを取り、昭和六十一(1986)年、六十二年と小石丸の飼育を行い、糸引きは座繰りの糸引きとしたので、ふんわり柔らかな糸に仕上がり、高速で引く機械引きとは違う糸ができた。
今時、こんなおかしな蚕を飼う人の顔が見たいと、国の蚕糸試験場長、間和雄氏が来島された。
氏のお話では今は耐病性があって飼い易く糸量が多い、高速で引いても切れず、糸が引き出しやすい繭の開発が目標で、糸質については考えていなかったということであった。
結局、「平成永鑑帳」が完成したのは、平成十一(1999)年のことである。
現在、私共では群馬県産オリジナル蚕品種 新小石丸を使っている。
元々は群馬二〇〇、世紀二一という品種を使っていたが、平成十三(2001)年に小石丸と世紀二一との交配によって新小石丸が誕生したため使用を始めた。
小石丸の持つ細く艶やかな糸が望める。
繭の形も小石丸と同じ俵形で、一般の改良種に比べ、小振りで引き出せる糸の長さは1,200メートルと少ない。