黄八丈の起源と変遷

黄八丈の起源と変遷

著:山下 譽


黄八丈の歴史は古く、またご存じのとおり辺境の地であったが故にか その始まりを含めて多くが不明である。

平安時代後期あたりから「八丈絹」などの名前が文献に散見されるが、八丈は一疋の長さの絹布を指すものであって、それを直ちに八丈島産のものと特定はできないという。
「吾妻鑑」に至って、八丈島産と明らかなものが登場するというが、私はそれらを検証していないので断言はできない。

室町時代の頃までは長さ八丈の黄色か白の無地だったと言われている。
その後二つの色、樺色と黒ができて、縞、格子模様が現れた。
黄色が印象的だったため、いつしか・・・多分江戸時代の末頃から「黄八丈」と呼ばれるようになったと推測される。

なぜか黄色の染めは古くからあったようで、これは八丈の黄染のルーツが中国にあるという説と関係がありそうである。
中国の皇帝が着る黄色の衣装はコブナグサで染めることに決められていたといい、黄色をコブナグサで染めるのは日本ではここ八丈島だけである。
蚕は中国あたりから入ってきたとされていること、島の北を黒潮が流れていること、さらに島には徐福伝説がある。
徐福に同行した従者に織物をするものがいて、絹の織物をはじめたという話があることなどから、中国とのつながりも想像してみる。

室町時代に伊豆一帯の領有をめぐって小田原の北条、神奈川の奥山、相模の三浦の三つ巴の争いがあった。
その結果覇権を握った北条氏は八丈島も手に入れて、以降五代、百年にわたって、八丈絹を貢納させた。

一般に日本で養蚕が盛んになるのは江戸時代後半になってからで、それまでは絹布は非常に貴重なものであった。
七百年前の時代、いかに八丈絹が尊ばれたかは想像に難くない。
それほど尊ばれ高名だったが故だろうか、江戸時代の学者、本居宣長は「玉勝間」で、八丈島の島名の由来について長さ八丈の絹織物を織り出す島の意であろうと記している。
この本居の説が当たっているかどうかは明らかでないが・・・。

江戸時代になると八丈島は幕府の直轄地になり、黄八丈はその年貢となった。
最盛期の江戸時代後期、天保十(1839)年には年間最多の704反を納めている。
島は伊豆諸島で唯一米を栽培していたが、わずかの収量しかなかったので、代わりに特産の黄八丈を貢納させられたのである。
年貢の布は同じものを二反織った。失敗があったときのために代わりの布をあらかじめ用意したのであるが、これを「御控え織り」と言った。
余った布は村が買い上げ、江戸の呉服商に入札させ、村の歳費に充てたという。
この江戸の呉服商を通して、世間にも広く知られることになったと考えられる。

黄八丈は基本的には平織り、帯地は綾織りである。
帯地は二人がかりで織ったといい、手間がかかるので反物八反分の価値があるから「八反」と呼ばれた。
二人がかりというのは、柳悦孝1先生によると、地機で綾織りを織る場合に綜絖を操作する人間が必要だったからということである。
また、黄八丈はシャキッとした布が特徴なのだが、それは打ち込みが強いからである。
年貢用の機を織る織女の年齢には制限があって、二十歳から四十歳までの者が充てられたという。
視力の問題もあろうが、打ち込みの腕力が要求されたからではないだろうか。
いずれにしろ厳格な規格に沿った高級な織物を何百反も織り出すのは想像もできない労苦であっただろう。

和装業界も四十年前の昭和五十年頃には二兆円規模であったものが、現在はその十分の一になった。
今後は更に減少していくものと思われるが、黄八丈は昔から年間二億円近くの生産量を保持している。
これは絶対量が少ないことが幸いしているからであろう。
嘗て元東京都知事の石原慎太郎氏が、黄八丈は世界に誇る東京都の宝物であると言われたが、昔の人の教えに従い、丁寧な仕事を続けていくのが後世に伝える使命だと考える。

  1. 染織家。柳宗悦の甥。元女子美術大学学長。1911-2003年 ↩︎

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