黄八丈の由来

黄八丈の由来

黄八丈めゆ工房 創業者
山下 め由


黄八丈が内地へ渡ったのは、遠く北条市の時代に貢物として納めたのが最初と申します。

おそらく島の名も八丈絹を産する島ということで、いつか八丈島と呼ばれるようになったものと思われます。

それから江戸時代を経て明治のはじめに至るまで、島の織物はすべて年貢として内地へ運ばれましたが、そのあいだに黄八丈の名は、南島独特の色あいなどによって世間に広く知れわたり、各地に多くの模造品が生ずるほど一般に愛好されるようになりました。

はじめは大名など限られた階級の範囲で、丈夫なところから夜具の類に用いられたらしいのですが、やがて町娘の間に流行した時期もあり また不浄除けの意味から医師が着るようになってからは、黄八丈はお医者のきまった衣服とされて、島出来のものはなかなか手に入りにくく値も高かったようです。

なお黄八丈という名称は、島で「黄八」と呼ぶ黄色を主調とした織物のことで、ほかに黒色が主な「黒八」、樺色の「鳶八」などあるのですが、やはり目に鮮やかな山吹色の黄色が人びとに慙新な感じを与えたとみえて、黄八は島の織物を代表する呼び名になりました。

黄八丈の特徴は、孫や曽孫の代まで色褪せないといわれるその染が生命で、南の島に恵まれた天然のおかげもあるでしょうが、多くの手数と日にちをかけて染めあげる島の染法は、他の模造品の追随がついに及ばなかったところでした。

あるいは年貢という宿命を背わされた黄八丈の仕事が、厳重な監視と規格を課された結果と推量できなくはありませんが、しかし絶海の孤島で激しい自然のなかに助けあいながら生きてきた先人たちの素朴な誠実さが こんにち不合理とも考えられるような工程をも含めて、ほとんど完璧な仕事をつくりあげたと想像するほうが、むしろ真実に近いでございましょう。

けれども、年貢の時代が過ぎて黄八丈が商品として生産されるようになったとき、民芸品の多くが採算の必要から固有の仕事を崩してだんだん衰微して行ったように、黄八丈もまた化学染料の普及なども手伝い、ちょうど内地の紺屋がたくさんの藍がめを抱えたまま姿を消したのに似て、全島に八軒あったといわれる染屋もつぎつぎとなくなりました。

化学繊維がいくら発達しても、やはり天然繊維のもつ特有の味が人々の愛着を繋ぎとめるように、昔から本染と呼ばれて尊重された純粋な草木染も、豊富な色彩を短時間に染め出す化学染料の効果とは、おのずから別個のものと申せましょう。

黄八丈の染が滅びることは、黄八丈そのものが滅ることになります。

私どもが昔から口伝てに、そして手から手へと教え継がれてきた技法をそのまま忠実に再現することは、ただ伝統を維持するだけでなく、貴重な文化的遺産のひとつを大切に継承して、その恩恵を伝えたい願いによるのでございます。


黄八丈コラム